第16回日本がん分子標的治療学会学術集会  市民公開講座

2012年6月30日に西日本総合展示場AIM3F(北九州市)で第16回日本がん分子標的治療学会学術集会(会長:河野公俊 産業医科大学学長)主催の市民公開講座を開催させていただきました。学会としての市民公開講座は今回が初めてになります。市民公開講座が学術集会と連動していたためその準備に追われ、市民へのお知らせが開催の一ヶ月前と遅くなってしまったにもかかわらず、定員200名の応募にほぼ同数の受講申し込みがありました。当日は、事前申し込み以外の市民も参加され200名余りの受講者で会場はほぼ埋め尽くされました。

今回のテーマは『がんの分子標的治療をご存知ですか?』〜今世紀に期待される新しいがん治療〜として、私(和泉)を含め4人が講演を行いました(PDFポスター)。イレッサなど新聞では薬の名前が先行していますが、分子標的薬という言葉やその意味が世間にあまり知られていないこと、今後がんの薬物療法で分子標的治療薬が主流になっていくことが考えられましたので前述のテーマを採用しました。また、総合司会と討論の司会を毎日新聞・科学環境部の元村有希子氏にお願いしました。

まず始めに、日本がん分子標的治療学会理事長の曽根三郎先生(JA高知病院 病院長)が開会の挨拶をされました。その後、4人の講師が下記のタイトルで講演をおこないました。


講演1『がん細胞の特徴と分子標的治療』
講師:和泉弘人(産業医科大学 医学部分子生物学 准教授)

人の体は約60兆個の細胞から作られていると言われています。その細胞のほとんどはたんぱく質をつくる設計図を遺伝子として保存しています。しかし、突然変異により設計図が書き換えられると本来のたんぱく質と異なるたんぱく質を発現したり、たんぱく質自身は正常と変わらなくても異常に量が増えたり減ったりすることがあります。がん細胞では設計図の書き換えが何ヶ所も起こることで無秩序に無制限に増殖することができるようになります。さらにがん細胞は自分に栄養や酸素を供給させるため、たんぱく質を分泌して正常の血管から新しい血管を引き込み増殖しやすい環境を整えます。困ったことにこの血管を使ってがん細胞は転移を起こし生命を脅かします。このような性質を持つのは正常とは異なるたんぱく質をがん細胞が作っているわけで、この異常なたんぱく質(たんぱく分子)を標的とする薬を分子標的薬と呼びます。現在世界では30種類の分子標的薬が承認され、それらの有効性が報告されています。日本では20種類のみ承認されその他は承認待ちの状態です。がん分子標的薬の課題としては、まだ使える種類が少ないこと、副作用の出現や耐性細胞の出現など通常の殺細胞薬であるいわゆる抗がん剤と同じ問題が生じていることがあげられます。分子標的薬ががん治療の主流になるには、使用できる分子標的薬の数を増やすこと、遺伝子検査で最も有効な標的分子を絞ること、いくつかの分子を同時に標的にするカクテル療法(数種類の分子標的薬を混ぜて投与する)を採用することが必要であると考えられます。これらが揃ったときに、きわめて少ない副作用でがんを克服する個別化医療が実現すると確信しています。

講演2『肺がんの分子標的薬と最新治療』
講師:田中文啓(産業医科大学 医学部呼吸器・胸部外科学 教授)

原発性肺癌の85%以上を占める非小細胞肺癌に対する化学療法の効果は乏しく、2000年までは化学療法を施行しても生存期間中央値は1〜1.5年にしか過ぎなかった。しかしながら分子標的薬剤の導入により状況は大きく変化し、組織型や遺伝子変異に基づいた有効な治療戦略が立てられるようになってきた。すなわち、扁平上皮癌以外の組織型においては抗VEGF抗体ベバシズマブを従来の抗癌剤(プラチナ製剤+第3世代抗癌剤)へ併用することで抗腫瘍効果が向上することが示され、また腺癌を中心として”Driver-mutation”を有する癌ではチロシンキナーゼ阻害剤(EGFR変異例に対するゲフィチニブやエルロチニブ、ALK融合異常例に対するクリゾチニブ)が極めて有効であることが示された。しかしながら、ベバシズマブにおいては著明な腫瘍縮小効果と比較して全生存期間延長効果が小さいことと効果が期待できる症例の選択が困難(選択のためのバイオマーカーが不明)であること、またチロシンキナーゼ阻害剤においては概ね1年以内に出現してくる薬剤耐性をどのように克服するか(薬剤併用や、症例によっては放射線あるいは手術の組み合わせ等)、といった解決すべき課題も多く残されている。いずれにしても分子標的薬剤の登場によって肺がんの化学療法は大きく進歩し、いずれ肺がんも治癒または生活習慣病のように“うまく付き合っていける”病気になる日が期待される。

講演3『消化器がんの分子標的薬と最新治療』
講師:石岡千加史(東北大学 加齢医学研究所腫瘍制御研究部門 教授)

消化器がんは胃がん、大腸がん、肝がん、膵がんなどを含みわが国のがん罹患者の3分の2を占め、男性の3人に1人が、女性は5人に1人が消化器癌に罹患しています。消化器癌の分子標的薬として本邦では大腸がんのベバシズマブ、セツキシマブおよびパニツムマブ、胃がんのトラスツズマブ、消化管間質腫瘍のイマチニブとスニチニブ、肝がんのソラフェニブ、膵がんのエルロチニブ、膵神経内分泌腫瘍のスニチニブが日常診療で使用され、治療成績が向上してきたが、さらに有効な新薬の登場が期待されています。同時に、より有効な薬剤を開発し患者に満足度の高い薬剤を提供するためには、感受性や体制を予測するバイオマーカーの開発が不可欠になってきました。また、バイオマーカーの開発は薬剤の費用対効果を高める上でも欠かせません。今後は医療費抑制の視点から、患者の生存期間の評価に留まらず、患者のQOLと医療経済を測定し、費用対効果に優れた治療薬の開発が必要です。それを実現するための医療の在り方を、患者、研究者、医療従事者、製薬企業、行政が一体になって議論する時期に来ています。

講演4『乳がんの分子標的薬と最新治療』
講師:清水千佳子(国立がん研究センター中央病院 乳腺・腫瘍内科)

乳がんは女性にかかるがんのなかで最も頻度が高く、また壮年期の患者での死亡割合の多いがんです。乳がんの領域では、ホルモン受容体やHER2といった、がんの性質を規定する分子標的がみつかったこと、分子標的に対する創薬が成功したことが、治療成績の改善に大きな役割を果たしてきました。今後も乳がんの分子生物学的な研究が進むことによって、より細やかに新薬の開発や治療の個別化が進むことが期待されます。一方で、分子標的薬は決して「夢の治療法」ではありません。治療抵抗性だけでなく、副作用、コストといった現実的な問題もあって、個々の治療方針の決定だけでなく、分子標的治療の開発や評価においても、市民や患者の方々の参加が不可欠な時代を迎えています。そのような意味で、このたびの市民公開講座は、市民の皆様と医療者とで共に分子標的治療を考える、貴重な第一歩になったのではないかと思います。

パネル ディスカッションでは司会の元村有希子氏が講師にいくつか質問をされた後、会場より3名の方の質問を受け付けました。

最後に、河野公俊会長が閉会の挨拶をされ、参加者からアンケート用紙を回収して市民公開講座は無事に終了しました。
今回、司会をしていただきました元村有希子氏に市民公開講座の感想を寄せていただきました。こちらをご覧ください

講演後の感想

今回学会として初めて市民公開講座を開催したこともあり、100万人都市の北九州でどれだけの市民が参加されるのか非常に心配でした。しかし、200名余りの方が講座に参加されたことから、がんに対する関心は予想をはるかに超えていることがわかりました。講演者からの視点では、結果を統計学的に解析することが必要なため、どうしても治療の有効性を有意差で判断しなくてはなりません。しかしながら、参加者自身ががんを患ってある程度治療を受けている場合は、今の治療を続けて良いのか、もし再発や転移したら他に治療はあるのかなど、個々の事例に非常に高い関心があることがわかりました。具体例をいくつも示すことががん治療に対して勇気を与えるのではないかと個人的に思いました。実際にアンケートでは「抗がん剤治療が効かなくなったので次は分子標的薬が良いのか免疫療法が良いのか知りたい」といったご意見もありました。また、参加者は医学部の学生ではないので極力専門用語は避けるべきですが、短い時間で内容を正確に伝えようとすると平易な言葉では難しいとうジレンマを感じました。

アンケート調査の結果

約200名の参加者のうち142名の方がアンケートにお答えしていただけました。142名の男女の割合と年齢の割合は図1と図2の通りです。女性が3分の2で60代が3分の1を占めていました。今回は乳がんの講演があったことが女性の参加者増加につながったと思われます。また、身内にがんの人がいる割合は76%(108人)でその内訳(複数回答可)は図3の通りです。参加者ご自身ががんと診断されている方が33名おられました。がんに対するイメージとしては図4(複数回答可)のように悲観的なご意見が多いことがわかりました。現在のがん治療については、図5のように約半数の方が満足をしていないことがわかりました。今回の市民公開講座で分子標的薬はこれまでの“殺細胞薬”である抗がん剤と異なることを理解してもらいたいと考えていました。受講する前は約半数の方が分子標的薬をご存知ありませんでした(図6)が、受講後は約9割の方がある程度理解していただけた結果(図7)になっており、この講座を開催した意義は非常に高いと考えます。しかし、個別の記入事項を見てみますと、「理解できた」と書かれた人から「難しくて分からなかった」と書かれた人までいましたので、受講者の立場で講演をする難しさを痛感しました。


図1 アンケート提出者の性別


図2 アンケート提出者の年齢


図3 身内にがん患者さんがいる人数(複数回答)


図4 がんに対するイメージ(複数回答)


図5 がん治療に対する満足度


図6 「がん分子標的治療という言葉を知っていましたか? 」についての回答


図7 「がん分子標的治療を理解できましたか?」についての回答

おわりに

日本で分子標的治療薬が臨床で承認されて12年が経ちます。まだ分子標的薬の種類が少なく、副作用や耐性(薬が効かなくなる)などさまざまな問題点が少しずつ出てきています。患者さんから問題点を指摘されることもあります。そのような問題点が分子標的治療薬の改善や開発に必ずや貢献してくれるものと信じています。今後も広く市民に分子標的薬の存在を知っていただき、がんになったら安心して分子標的治療を受けていただく、さらに受けたいという患者を一人でも多くの増やすことが我々の使命であると考えてこれからも邁進してまいります。

文責 和泉弘人(産業医科大学分子生物学教室)